無財の七施
下記のお話は「法華宗真門流ホームページに掲載した内容です。是非宗門のホームページへもアクセスしてみてください。
法華宗真門流 http://www.hokkeshu.jp/
妙源寺 住職 林 勝信
布教師 林 勝信 | ||||||
「施」とは、布施(ふせ)のことです。ほどこしをすることです。読経のお礼としてお寺さんにさしあげるのも布施の一つで、そのことだけをさす言葉ではありません。 仏教では布施を施すことを最も大切な仏道修行としております。「施しは無上の善根なり」と云う言葉もあります。 施しとは、物でもお金でも、今それを必要とする人々のために心を込めて捧げることであります。しかし、どんなに尊い仏道修行でも、無いものは捧げることが出来ません。 ここに財持が無くても出来る施しがあります。無財の七施といい、自分自身の善根をみがくように努めたいものです。 観世音菩薩(観音さま)とか虚空蔵菩薩(虚空蔵さま)と云われる菩薩と云うことは、求道者、仏道修行者と云う意味を持つもので、仏教の信者として六波羅蜜(六度=布施(ほどこし)・持戒(規律)・忍辱(たえしのぶ)・精進(努力)・禅定(おちつき)・智慧(学ぶ))を実践実行しなければならないとされています。 その第一にあげられている「布施」こそが、菩薩であることの必須条件なのです。 普通に「布施」と云えば、財施、法施、無畏施の三種類があります。 この三種の中の「財施(ざいせ)」と云うのは、貪(むさぼ)る心とか、欲しいと思う心、恩にきせる心を離れて、お金や衣食などの物資を必要とする人に与えることをいいます。 「法施(ほうせ)」とは、物質財物をあたえるのではなく、教えを説いてきかせると云った、相手の心に安らぎを与えること、精神面でつくすことをいい、僧侶などが行うべき最も大切なことです。 「無畏施(むいせ)」とは、恐怖や不安、脅(おび)え慄(おのの)きなどを取り除いて、安心させることをいいます。 しかし世に中には、施すべき財もなく、教える智慧もなし、ましてや人様の恐れおののきなどを取り除いてやることなど思いもよらない、という人の方が圧倒的に多い。それでは信仰があっても、仏教の実践など到底出来ないことになってしまいます。 しかし、「雑法藏経」というお経の中で、釈尊は「財力や智慧が無くても七施として、七つの施しが出来る」ことを教え示されておられます。無財と云うのは、費用も資本もそして能力も使わないで実行できる布施のことなのです。 その七つの布施とは、 一、眼施(慈眼施) 二、和顔施(和顔悦色施)(わがんえつしきせ) 三、愛語施(言辞施) 四、身施(捨身施) 五、心施(心慮施)(しんりょせ) 六、壮座施(そうざせ) 七、房舎施(ぼうしゃせ) 以上が無財の七施であるが、すべて仏の立場に立っての慈悲の実践なのです。 お金が無くても、地位が無くても、何の持ち合わせが無くとも、簡単なようで難しいことではあるが、いつでも、どこでも、誰に対してでもできることです。 合掌 |