4月28日の「立教開宗」とは
立教開宗
日蓮大聖人は千葉の小湊でお生まれになり、御歳16歳の時、生家から程近い清澄寺で出家得度なされました。
清澄寺の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」と誓願を立てられて以来、20余年の間、釈尊の御本意を知るため、鎌倉の諸大寺、奈良、京都、三井園城寺、比叡山延暦寺など求道の旅を続けられ、御年32歳の時、清澄に戻られた建長5(1253)年4月28日の早朝、昇り来る旭日に向って声高らかに「南無妙法蓮華経」とお題目をお唱えになりました。
これを「立教開宗」といいます。「題目宣言の日」であります。
この時、法華経伝道の誓願をお立てになられ、是聖房蓮長を改め、日蓮と名乗られたのです。
立教開宗---報恩と誓願
“この日本国で、法華経こそ、お釈迦さまの説かれた最もすぐれた第一のお経である。
その他のお経は、仮に説かれた方便の教えである。この真実の御教えである法華経を信じれば、その身のまゝで苦しみから離れ、仏の大慈悲心を持つことが出来る。もし、法華経をそしることあらば、その人は長い間、重い苦しみから抜け出すことは出来ない”
これが、日蓮大聖人のお考えでありました。
このとき日蓮大聖人は、恩ある人を助けたい、生と死に迷い苦しむ人を救いたいという願いをこめて、今までの勉学修行で得た、真実の教えとは何かを説いたのです。
「この世に生きている私たちにとって、最も縁の深い仏は、お釈迦さまたゞ一人である。ほかの仏たちは、私たちを救ってくれる仏ではない。お釈迦さまは、私たちにとっての救い主であり、導きの師であり、親しき父母である。しかも、お釈迦さまはこの世に、水遠の命をとゞめ、等しく仏の子である私たちを、救い導こうと誓われている。本仏であるお釈迦さまを信じ、敬い、仏の大慈悲心を身にも心にもたもちつゞけるならば、人は皆すべての苦悩から離れ、仏と同じようになれるのである」
「経は多い。教えにもいろいろある。しかし、お釈迦さまの真実の心をあかした正しい教えは、たゞ法華経(妙法蓮華経)だけである。法華経は、経の王である。法華経には、すべての生きとし生ける者を仏にし、救っていこうとする仏の誓願が語られている」
「この法華経の肝心かなめが、南無妙法蓮華経という法華経の題目である。お題目は、身と心の病をなおす良薬である。仏になる種なのだ。一心に声も惜しまずに、お題目を唱えるならば、自然に仏のつまれた功徳が譲り与えられる。あらゆる苦悩、さまざまな悪から脱れ、現世は安穏となり、未来には仏の世界に安らかに住むことが出来る」
このように、日蓮大聖人は説かれたのです。
日蓮大聖人の胸中には、
「もとより、学問修行をしてきたのは、仏となって、恩ある人を助けたいと思ったからである」 という誓いがこめられていました。
「出家の身となったのは、父母を救いたいからであった」
その願いが、深く強く心のうちにありました。
「日本第一の智者となし給え」と、清澄寺の虚空蔵菩薩に願を立て、ついに仏の教えを知ることが出来た、感謝の気持ちがありました。
12歳のときから自分を教えてくれた、師の道善房の恩に報いたい、という思いもありました。
仏弟子は、恩を知り、恩に報いる生き方をしなければならない。そのためには、わが身が、仏の教えをマスターする智者となり、真実の教えである法華経を、どのような困難にぶつかろうとも、恐れず、くじけずに語りつゞけ、ひろめていかねばならない。
日蓮大聖人は、この<報恩と誓願>をひしと心に刻みつけて、「仏の誓いに背いてはならない」「仏の恩に報いよう」という決意をもち、思い切って清澄山で最初の説法を行ったのでした。
のちに日蓮大聖人は、このときをふりかえって、こう述べています。
「日蓮は、世界のなかの日本、日本国のなかの安房の国 東条郷 において、はじめて、この正しい仏法をひろめたのである」
日蓮大聖人は、困難をいとわず、わずかな人々に向って法華経を語り、お題目を唱えるようすすめました。立教開宗は、ここからはじまったのです。
「全世界のなかで、仏が入滅されたのちの2225年が間、一人も唱えなかったお題目を、日蓮ただ一人、南無妙法蓮華経と声もおしまず唱えているのである」
日蓮大聖人は、お題目を唱えることによって、あらゆる人から受けた恩に報いようとし、法華経に示された仏の大慈悲心をすべての人が持つよう、お題目をひろめつづけたのでした。
「日蓮の慈悲が広く大きければ、南無妙法蓮華経は、万年のほか未来までも流布 するであろう。お題目には、日本国の人々の心の闇をとりのぞく功徳がある。法華 経の正義をそしる者が、地獄の苦しみに堕落する道を、ふせぎとめる功徳をそなえて いる」
日蓮大聖人は、このように示されました。
こうして “慈悲のお題目”を唱え、すべての人々が煩悩をとり除き、苦しみをのりこえ、喜びと安らぎの心を抱き、仏のような慈悲の心を持って生きていくよう、お題目をひろめたのです。
この始まりこそ、立教開宗の時、建長5年4月28日の早朝でした。
「日蓮は、去る建長5年4月28日より、今年弘安3年12月に至るまで、28年の間、ただ南無妙法蓮華経の七字五字を、日本国の一切の人々の口に入れて、唱えさせたいと励むばかりであった。これはつまり、母が赤ちゃんの口に乳を入れてのませようと励む、慈悲の心と同じである」と、のちに日建大聖人は御指南されておられます。
日蓮大聖人にとって、建長5年4月28日は、お題目を人々に唱えるようすすめた重大な原点であり、これを出発点として、日蓮大聖人は、世の平安と人間の幸福を実現する仏の使い、法華経の行者としての、記念すべき第一歩を開拓したのでした。さらに、この立教開宗の時、日蓮大聖人は大いなる誓いを立てたのです。
「我れ、日本の柱とならん。我れ、日本の眼目とならん。我れ、日本の大船とならん。と誓った願を、けっして破らない」との強い覚悟を表明しました。「三大誓願」といわれています。
「日蓮」の名のり
日蓮大聖人は、幼名を善日麿といいました。12歳の時、父母のもとを離れて清澄山にのぼり、道善房を師匠とたのみ、兄弟子の浄顕房、義城房の手ほどきを受けて、学問修行にいそしみました。この折には、薬王麿と呼ばれました。やがて、16歳で出家し、是聖房蓮長と称するようになりました。
そして三十二歳の時、比叡山での修行を終えて故郷の清澄山に帰って来た時、是聖 房蓮長は、「日蓮」という名のりを公にあげました。それが建長5年4月28日の立教開宗の聖日であります。
名は体をあらわす、と申します。名には、誓いや願いがこめられています。名にこめられた徳性を身につけたい、という希望が名に託されています。
「日蓮」という名は、法華経の行者として生きていこう、妙法蓮華経の徳を身につけ、それをひろめていこうという誓願を、結晶したものでした。
「日蓮」の「日」の一字は、法華経神力品(第二十一)にある
「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅し、無量の菩薩をして畢竟して 一乗に住せしめん」という一節から選び取ったものでした。
「蓮」の一字は、法華経従地涌出品(第十五)に示された
「普く菩薩の道を学して、世間の法に染まらざること、蓮華の水に在るが如し、地より涌出して、皆恭敬の心を起して、世尊の前に住せり」の言葉にもとづいていました。
いずれも、仏の使いである上行菩薩などをリーダーとする、地涌の菩薩たちがお釈迦さまの前で、末法の世に法華経を語り示していく、強い誓願を表明したお言葉でありました。 この仏使上行菩薩および、その使いとしての自覚に立って、法華経と共に生き、法華経に命をささげ、法華経をひろめていこうと誓願を立てた時、「日蓮」という名のられたのです。
「日蓮」の名のりにこめた自覚を、日蓮大聖人はこう述べています。
「およそ、名ほど大切なものはない。日蓮と名のる事は、自ら法華経の一仏乗を 信じ理解したからである。このように言えば、利口ぶっているように聞えるが、法華 経の説く道理の指すところに従えば、さもあろうと思う。
法華経には「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」とある。
「斯の人」とは、釈迦牟尼仏より、末法の世に法華経をひろめるよう委託された上行菩薩が、末法のはじめに出現して、南無妙法蓮華経の光明をそそいで、生死の苦しみをさまよっている人々の心の闇を照らす、という事である。
日蓮は、この上行菩薩の御使いとして、まず日本国の人々に法華経をすすめるのは、
この経文の通りに実行しようとしているからである」
さらに、次のようにも語られています。
「闇であっても燈をつければ明るくなる。濁った水でも月が宿れば澄む。明るいことは日月の光にすぎるものはない。浄らかなことは蓮華にまさるものがあろうか。法華経は、暗い世の中を明るくし、濁った人の心を浄める日月の光と清浄な蓮華なのである。そこで、妙法蓮華経と名づけられている。日蓮もまた、その日月と蓮華のように生きるものなのだ」
太陽の光のように明るく
まっくらやみの世の中と、人の心の闇をとりのぞいていこう
泥にまみれながら、花を咲かせる蓮華のようにきよらかに
世と人の煩悩の垢や泥を洗いながし、身も心もきよめていこう
日蓮大聖人は、こう誓願して自ら「日蓮」と名のり、仏の使いとして生き、「上行菩薩の再誕」として法華経に身を献げることを誓われたのです。