四大法難
<四大法難とは>
日蓮大聖人は一生のうち生命にかかわる法難を四回、小さな法難は無数に受けられました。
四大法難といいますのは、40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」。
43歳のときに房州小松原で地頭東条影信の一軍に襲撃された「小松原法難」。
50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されようとした事件。
このとき鎌倉一帯には不思議な現象が起り、処刑は中止されたことは有名です。これを「龍口法難」といいます。
同じその年、佐渡遠流の難にあい、配所の佐渡における生活は、寒さと飢えに悩まされる過酷なものでした。これを「佐渡法難」といいます。
大聖人が法華経を弘めることは命がけでした。
しかし、末法の世にこの法華経を弘める人には必ず大難や小難がくると書かれた法華経の経文の通りであると感激して耐えられ、法華経の行者としての自覚を深められたのです。
『伊豆法難』 弘長元年(1261年) 5月12日、聖寿40歳。
弘長元年(1261年)春、四十歳をむかえた日蓮聖人は、再び鎌倉に帰り、辻説法を再開しました。
日蓮聖人は焼死したものと思いこんでいた草庵焼打ちの首謀者たちは驚き慌て、はかりごとをめぐらせました。
5月12日朝、理不尽にも聖人は捕らえられ、そのまま伊豆の伊東へ流罪となったのです。
由比ケ浜 からの船出の時、弟子日朗上人が随行を願い出ましたが許されませんでした。
日蓮聖人は夕陽が傾く中、伊東に程近い篠海浦のとある岩の上に置き去りにされました。潮が満ちてくれば海に没する俎岩です。
死を待つばかりの日蓮聖人は静かにお題目を唱えておられましたが、そこえ不思議にも通りかかった漁夫船守弥三郎の船に助けられました。
この地で日蓮聖人は一年七ヶ月を過ごされ、その間に立像釈牟尼仏(随身仏)を感得されたのです。
『小松原法難』 文永元年(1264年) 11月11日、聖寿43歳。
許されて鎌倉へ戻った日蓮聖人は文永元年(1264年)秋、久しぶりに故郷小湊に帰られました。
父の墓もお参りし、母や恩師道善房を訪ねられたのです。
しかし、かねてから日蓮聖人を恨んでいた地頭東条影信は、聖人の帰国を知り、聖人を亡き者にせんと機をうかがっていました。
そして十一月十一日夕刻、小松原で日蓮さまの一行を数百人で待ち伏せし襲撃におよびました。
弟子の鏡忍房、天津領主工藤吉隆(法号妙隆日玉上人)は討ち死にし、九死に一生を得た日蓮聖人も額に傷を蒙りました。
『龍口法難』 文永八年(1271年) 9月12日、聖寿50歳。
文永八年(1271年)9月12日夕刻、平頼綱は数百人を従えて草庵を襲い、人心を惑乱させるものとして、日蓮聖人を捕らえました。
これは日蓮聖人の存在を心よく思わない人々がさまざまな陰謀をもって幕府を動かしたからでした。
そして佐渡流罪の名目で、日蓮聖人の首を切ろうとしたのです。
しかし深夜龍口の刑場でまさに処刑が行われようとしたとき、不思議な天変が起り処刑は中止となり、当初いわれた佐渡への流罪となりました。
『佐渡法難』 文永八年(1271年)10月28日聖寿50歳。
佐渡に到着。塚原三昧堂に入られる。文永9年(1272年)夏、一ノ谷へ移住。文永11年(1274年)3月13日佐渡流罪を許され、同年5月17日身延山に入られました。